アカデミーストリングスの誕生秘話

2004.9.1 (草稿:渋谷+佐藤)

はじめに
 アカデミーストリングス(弦楽合奏団)は1961年の第1回定期演奏会をもって正式に発足したが、当時指揮をお願いしていた荒井先生(米沢市内のお米屋さんでバイオリン教室も開いておられた)のお話しを思い起こすと、さらに10年ほど前にも玉上(M)、尾原(T)他の先輩方による合奏活動(合奏団名不詳)があったことをつけ加えておかねばならない。したがって1961年以来毎年1回の定期演奏会を代々の団員のみなさんが続けてこられ、昨年2001年11月には40回目の記念すべき演奏会が行われたのも一つの区切りではあるが、合奏団の創立という観点から見ると昨年の演奏会は創立50周年記念演奏会でもあったのかもしれない。つまり1961年以前の途中しばらくの休眠期間があったにせよ、なんと我々アカデミーストリングスの活動は半世紀もの間受け継がれてきて、今や伝統あるクラブ活動になっているといえる。


第1章 アカデミーストリングス誕生の背景
 初代部長の渋谷、2代目の熊沢の両名は当時のオーム寮(1961年〜19XX年)の初代同時入寮生で1年違いの電気科学生であったが、ともにバイオリンを愛奏することがわかり意気投合したのがそもそもの始まりだ。さらに渋谷の方はそれ以前から、後にチェロで参加する高坂の父親(耳鼻科医師)の主宰する山形フィルハーモニックの団員でもあったため、毎週金曜日夜の山フィルの練習に熊澤を誘って出かけるようになった。そのうちに高坂先生の音楽とオーケストラへの情熱に触発された二人は、練習が終わって米沢に戻った瞬間に、いつしか音楽飢餓状態に陥るようになった。当時山形には山大特設音楽科オーケストラがあり、さらに山フィルもあるというのに、米沢にあるのは荒井先生のバイオリン教室だけという淋しい状態だった。高坂先生の論文の中に音楽飢餓という“医学?用語”があり、音楽に親しんだ者から音楽を除くと一種の飢餓状態に陥るということも教わっていたが、まさに二人は米沢でこのビョーキにかかってしまっていた。そしてこのビョーキからの脱出がアカデミーストリングスを誕生させたのであった。
 渋谷の方はすでに山フィルの運営にも参加していたので、多少オーケストラの運営の難しさを体験していたし、それまでのなじみで山大オケや山フィルのメンバーの協力を得ることもできた。また熊澤の方は持ち前の情熱で工学部内の学生団員確保に奔走した。しかし、当時は参加したくとも3千円の最安値の鈴木のバイオリンが買えずあきらめる学生もいたのだった。そんな中に異才が一人、なんと自分で白木のバイオリンを作って参加した佐藤(創立者の一人)がいた。しかも佐藤はビオラがいないというので自作のバイオリンにビオラの弦を張ってがんばってくれた。詳細は第4章で述べるが、彼はまた当時の新聞部にいた塚本(Vn)と協力してアカデミーストリングスを、山大工学部クラブ活動の正式な部としての昇格のために奔走してくれたのだ。そのおかげで化学工学の井上教授を顧問に迎えて、名実ともにアカデミーストリング体制が確立した。
 バイオリンでさえなかなか部員が集まらないなかで、チェロ弾きはさらに探すのが大変なはずだったが、幸い高坂先生の三男が山大工学部化学工学科に入り、熊澤の次に米沢にやってきた。父親譲りでチェロをかじっていたのでさっそく無条件入団となり、ここに渋谷(Vn)、熊澤(Vn)、佐藤(Va)、高坂(CLLO)という中心メンバーが揃い、カルテットも結成することができた。さらに生田、塚本、吉田、片上(米短)ほかのメンバーも加わりいよいよ第1回の演奏会に向けての練習が開始された。


第2章 アカデミーストリングス産みの苦しみ
 いよいよ第1回目の演奏会に向けての準備がスタートしたが大きな問題は3つあった。 一つは前にも述べたとおり団員の確保であり、これにはとくに熊澤が中心になって奮闘したが、工学部の学生だけではせいぜい10名足らずのメンバーを集めるのがやっとであった。そしてその状況は何年経ってもあまり変わらないだろうから大管弦楽団を目指すのは無理だろうと、そして学生らしい弦楽中心の音楽活動をする願いを込めて「アカデミーストリングス」と命名したのであった。山大のイニシャルYを前につけて“Y.A.S.”(ヤース)というブランドも生まれ、Y.A.S.弦楽四重奏団も誕生した。さらに団員不足を補うために指揮者の荒井先生のお弟子さんにも賛助出演をお願いした。その中の一人にいた片上さんという女子短大生はバイオリンが上手くてソロもお願いしたのだが、彼女こそ現在の米短生メンバーの最初の一人だったともいえるだろう。その他山大旧特設音楽科の学友達にも応援を頼んで何とか10数名の演奏会メンバーが揃ったのである。
 二つ目の問題は指揮者をどうするかであったが、前述の荒井先生がバイオリン教室を開いておられる情報があり、さっそく部長の渋谷が荒井先生のお宅に参上してアカデミーの指揮をお願いに出かけた。幸運にも二つ返事で快諾されたのでこの難問はたちまち解決した。初対面にもかかわらず、あの小太りで無骨な荒井先生は、音楽の話になると白い歯を見せながら熱く音楽の持論を語るのであった。また驚いたことには、お茶を出してくれたご母堂が突然「正俊はバイオリンのおかげで女遊びをしないので助かってます・・…?!」と当時の我々には想像もできないことをいわれて大いに戸惑ったのであった。あとで分かったことだが、荒井先生の近くは元遊郭のなごりが残っており、まだロマンの香りが漂っていたようだった。
 最後の問題はどうしたら演奏会に聴衆を集められるかということであった。どう考えてもはじめの頃の演奏は聞かせるというほどのものではなかったと思うが、演奏会というからにはやはり聴衆がなければ成立しない。第1回定期演奏会では主に工学部の寮生および米短の第二寮生などに入場整理券を買ってもらったが、それだけでは当時の講堂を完全に満員にすることは出来なかった。そこで第2回の時は自分たちの練習の成果を広く米沢市民のみなさんに聞いてもらいたいという信念に燃える団員たちが中心に、一人当たり数十枚の整理券を持っていっせいに雪の降りしきる米沢の町に飛び出した。ちなみに整理券(入場券とすると当時は入場税を払わされたので整理券とした)は30\(当時のラーメンの値段)であった。米沢駅前、バスターミナル、映画館前、ダンスホール(ニューオアシス)および上杉神社近辺などに立って、道行く人々に頭を下げながら買ってもらったのを懐かしく思い出す。かくして第1回目の記念すべき定期演奏会が行われ、また第2回目にはみんなの難儀のおかげで寒い冬の会場も大盛況で熱気にあふれるものとなった。


第3章 定期演奏会のスタート
 1961年7月13日、いよいよ最初の定期演奏会の日がきた。当時の写真から推定してYシャツに黒ズボンのいでたちで演奏しているので、きっと夏の暑い日の演奏会だったと思うが、緊張のあまりかその時の印象を正確に思い出せるメンバーが見当たらず、残念ながら写真だけが頼りでまるで夢のような思い出となってしまった。(ヘンデルのアルキーナ組曲、ビバルディのバイオリン協奏曲イ短調を片上さんの独奏で、バッハの管弦楽組曲そしてYASカルテットによるドボルザークのアメリカ第2楽章…!)

第2回目の定期演奏会は1961年11月25日で当日は雪はあがっていたが底冷えのする寒い日であった。会場は暖房設備のない旧講堂のため、聴衆が寒がるのはもちろんだが演奏する方も手がかじかんで、ただでさえ上手く弾けないのに最悪のコンディションを思わせる朝を迎えた。
 そこで一計を案じ、学寮(旧白楊寮)から木箱の火鉢をほとんど全部借り出して講堂のあちこちに配置したのであった。たしか20〜30個ほどの火鉢に赤々と炭をおこして入れた。実際にはそれほどの暖房効果はなかったはずなのに我々の気持ちが伝わったのか聴衆からの反応には暖かいものを感じることができた。
 第2回目のプログラムは幸い現存しているのでその中を要約してみると、


         指揮:荒井氏、Vn:9  Va:2  Cllo:2  Flute:1

         *YASカルテット
            ・ポピュラーカルテットアルバムより7曲
            ・ハイドン作曲 弦楽四重奏曲第72番「鳥」全曲
            ・チャイコフスキー作曲 アンダンテカンタービレ

         *フルート独奏(山フィル;安達尚宏)
            ・ドビュッシー作曲 シリンクス
            ・ドンジョン作曲 風の音
            ・ドップラー作曲 ハンガリー田園幻想曲

         *Y.A.S弦楽合奏団  
            ・バッハ作曲 管弦楽組曲2番(ロ短調)全曲
  
                      フルート:安達、  チェロ:高坂


以上が記憶と記録とから引きした第1回、第2回定期演奏会のプログラムである。

演奏会のエピソード:
 ハイドンの鳥は熱を入れて練習したので、何とか途中で止まらずに最後まで弾ききったが、ドボルザークのアメリカが今でも脳裏に刻まれ忘れがたい思い出がある。 ご承知のとおりアメリカの第二楽章は、第1Vnがはじめから言葉では言い表せない心にしみとおる様な叙情的な旋律を奏でて、第2VnとVaは最初から最後まで同じ刻みの音符を弾くというチョットでも目を離すと自分の場所を見失いそうな楽譜で、この両奏者にとって退屈であるが気の抜けない曲である。しかし、Vaにとっては唯一フィナーレで曲を際立たせているうめき声の様な佐藤好みの旋律が引ける魅力を持っているのだった。 さて、アメリカの2楽章が始まってまもなくのことである。Vaと一緒に出てくるはずの第2Vnの熊澤の音が突然聞こえなくなった。彼は必死に皆が弾いているところを探しているが分からなかったらしい。しばらくして上目で見るとVnを右膝に載せてじっと動かない。今は自分の出番はないのだ、と言った毅然とした態度である。Vaの佐藤の方にはこれでは絶対失敗できないというプレッシャーがぐっとのしかかってきた来た。必死で弾き、リピート記号の小節まできたところでやっと彼がVnを構えたのである。この次の小節から、本来の曲となり最後まで順調であったことは申すまでもない。この時、米沢の地で世界初の“弦楽三重奏?”によるアメリカが演奏されたことになる。
 第2回定期演奏会のプログラムから2代目の部長であった熊澤の挨拶文の一部を引用すると、・・・・・・

私共の団体の主旨は純音楽を通して常に平和で幸福な楽しい生活を送ろうということにあり、ひいては当米沢における音楽文化向上に少しでも寄与できればと考えております。したがって上の主旨からも市民の皆様にもご参加願いまして自ら演奏することにより更に音楽を美しく楽しいものとしていただけたらと思っております。もしこの私どもの主旨にご賛同いただけたなら下記(山大工学部弦楽合奏団Y.A.S.部長)までご連絡くださいますようお願いいたします。

 この挨拶文にある「市民の皆様にもご参加願いまして…」がその後に熊澤、高坂が中心になって設立する「米沢市民オーケストラ」への意気込みが感じられるのである。


第4章 山大工学部クラブ活動としての部昇格承認
 演奏活動と並行して、1961年暮れに当時山大工学部新聞部に所属の塚本(繊維工学化38卒)から、工学部クラブ活動の部としての承認の話があった。彼の父は仙台フィルでVnをひいていたとのことでYASへの参加は勿論、側面からも支援してくれた。彼は新聞部に所属し各種情報が多く、工学部のクラブ活動に関する情報も彼が収集し、部昇格承認のための関係先への働きかけを積極的にしてくれた。学生大会は翌年4月ころにあったと記憶するが、草稿を書いた佐藤(応用化学38卒)と二人で部昇格申請書に理由書を添えて提出した。学生大会の最後の議題でこの案が提出され理由書が高々と読み上げられて満場一致で承認された。その時に井上教授(当時は助教授か?)が顧問となったのであろう。
部昇格申請理由書の内容は、およそ次のようなものであった。

現在米沢には音楽文化が不毛である。クラシックを好むものはLPやラジオだけでは満足できず飢餓状態にある。工学部に合奏団が昨年創設された。工学部および米沢の地を音楽が奏でられる地域とし、文化向上に微力ながら尽くしたい。
(注)当時クラシックの生演奏は仙台が多く山形市で希に開催される程度であった。米沢に居た3年間で聴いた本格的演奏会は、平井丈一郎のCello独奏会ぐらいであった。

佐藤は承認後喜び勇んで議案決定した講堂を後にした。クラブへの補助金はどの程度か記憶していないが、たぶん微々たる金額であったと思う。


第5章 分教場慰問カルテット演奏会
 第2回目の定期演奏会後の春頃であったろうか、多少大袈裟ではあるが米沢文化の向上を目指していた我々は、市内よりもっと文化に恵まれない子供たちのためにカルテットの演奏を聞かせてやろうということになった。分教場の名前も思い出せないが、米沢の山の中にある分教場で、とうてい歩いては行けないので高坂の口利きで自動車部に我々の運搬をお願いすることにした。当時は自動車なんて大金持か商売の家でないとなかったし、バスは行かないしタクシー代なんてまったく払えなかったので、かなりのポンコツではあったが自動車部の協力は有り難かった。
 エッチラオッチラ登って行った分教場に着いて案内されたのは畳部屋の“裁縫室”であるのには少し驚いた。だがそこに座ると畳の匂いがして何か平和な感じがしたのを覚えている。楽器を取り出して準備をしていると、どこからともなくおっかなびっくり子供たちがその裁縫室に集まってきた。初めに楽器紹介をしたら、やはり大きなチェロで低音を弾いてみせたとたん「おーっ!」という声が上がった。10畳間ほどの部屋に我々4人と全校の子供たち20名ばかり集まった時のあの異常な雰囲気は忘れられない。一番前の男の子が珍しそうに楽器をさわりに近づいてきてすぐに後ずさりしてニコニコしていた。あれから40年も経ったのだからあの子も今は50歳ぐらいだろうか。
 ポピュラーカルテット曲集を中心に大盤振る舞いをして小さな演奏会は無事終わった。帰りに校門のところで車を止めて振りかえると、子供たちがみんなで窓から手を振ってくれていたのが今も目に焼き付いている。帰りのドライブは至福の時間であった。


あとがき
 実はその後になって第1回演奏会の録音テープが残っていることがわかり、佐藤より渋谷のところに送られてきた。オープンリールなので古い録音機を出して再生したところ、まさにあのアルチーナ組曲がかすかに聞こえてきた。40年前の音が残っていたのである。当時のマイクの性能のせいか、FM放送の音楽はまともに入っているのにマイク撮りの方は聞きとおすにはかなりの根気が必要である。また、期待していたカルテットが収録されておらず多少残念ではあったが、それでもなお聞いているうちに熱い想いが打ち寄せてくるのを止めることができなかった。そのうちなんとかCDにコピーして当時のメンバーに送りたいと思っている。

 先日アカデミーのMLに後輩の山田君という元気そうなアカデミー出身者が、会社の仕事でベトナムのホーチミン市に数年間赴任することになったというので、さっそく渋谷から「赴任中にホーチミン市民オーケストラを設立せよ、第1回演奏会には応援に駆けつけるよ!」という餞別メッセージを送っておいた。こうしてアカデミーの輪が新しい世界に広がるのを楽しみにしている。

(完)


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